私の3.11まんまるリレー きょうこ


【私の3.11まんまるリレー〜櫻井京子〜】
まんまる運営スタッフによるリレー連載。
今日の担当は櫻井京子です。
※以下、長文です。
また震災当日の表現を含みます。
被災の程度、内容を比べるものではありません。
現在の、まんまる運営スタッフとしての気持ちを読んで頂けたらと思います。
5年前の3月11日、釜石市にいました。
午後一番に市役所で母子手帳の交付を受け、ルンルン気分で海沿いの東前町の勤めていた会社に戻りました。
金曜日で上司もみんな盛岡に会議に出ていて、後輩と談話しながら仕事をしていると、いきなりテーブルのパソコンがグラグラして、ケータイから変な音がして、会社の電話が電源が切れたと変な音がして、職場に陳列されていたペンキが崩れだして、すごい揺れにもうどうしていいかわからなくて、薄型テレビは飛んできて、怖くなって外に出ました。
地震がおさまると、海沿い工事していた人達が、重機もそのままにして逃げだしたので、これはどうしたことか、と思いました。
1年前にも津波注意報があったときに、会社の重要書類は全て2階に上げるように指示されていたこともあり、手は震えてしまってなかなかレジや金庫も上手くあけられなかったので、とりあえず2階に上げました。
違う部署の係長が来てくれて「ワンセグでみたけど逃げないと津波来る、3メートルだ。上司に連絡とれないのは仕方がない。もう逃げよう。」と言って、はじめて、逃げよう、と思いました。
本当はサイレンが鳴り出した時点でこわくて逃げたかったけれど、上司も責任者もいなくて、事務員二人で、逃げるに逃げられなかったのでした。
私は、後輩と車で逃げました。
自分の車があったことも忘れる位、気が動転していて、後輩の車に乗って、信号もついていない、古い家屋は道路に崩れていたりして、渋滞もしかかっていたけれど、歩いて逃げていたら絶対間に合わなかったし、私の運転技術だったら渋滞にはまっていただろう、と今でも思います。
大町の少し上の山沿いのところからは、街の中心部の道路がほんの少し見えました。
まだ明るかったのですが、黒い波は見ていません。
土の煙、中心部の道路に船が流れてきているのを、近くの住民の方が双眼鏡で見ていましたが、後輩が心配して、妊婦さんだからショックを受けないように見ないほうがよい、と言って私は見ませんでした。
避難所でも、後輩が「彼女は妊娠していて、体調もよくなくて会社も先日まで休んでいたので…。」と避難所のリーダーに伝えてくれてこともあり、おにぎりも、毛布も、子どもや老人と同じタイミングでもらっていました。
余震が続き、その度にどよめきがおこり、不安な気持ちになり、星がとても綺麗すぎるほどで、夜も眠れませんでした。
日付が変わったタイミングで「京子先輩、大変なお誕生日になっちゃいましたね。」と言うので、避難所の同じ部屋の人たちが、「こんなローソクだと、お祝いって感じじゃないけど…おめでとう。」って、部屋に唯一あったろうそくを見て、少し笑ってくれました。
そこからはなんだか、空気が和らいで、朝が早く来るように…なんて、みんなで励まし合いました。
翌日の朝、夫が避難所までむかえに来てくれて、私は自宅に戻ることができました。
私は、直接被災ではありません。
でも、被災の有無に関わらず、こういう震災のときの話をしています。
5年が経つ今も、こんなに鮮明におぼえていて、びっくりです。
でも、忘れたいことは正直書けませんでした。ごめんなさい。
今、私がこうしてまんまるママいわてのママスタッフとしてこの活動に携わっているのは、あのときに、生かされたと思うからです。
私がそうしてもらったように、私も隣のあなたのそばにいたい。
この場をかりて、ママになって、去年はまんまるサロン釜石にも参加してくれていた後輩に感謝の気持ちを述べたいと思います。
かおりん、あのときは、本当にありがとう。

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