私の3.11まんまるリレー かずい


【私の3.11まんまるリレー〜ささきかずい〜】
まんまる運営スタッフによるリレー連載。
今日の担当は佐々木一愛です。
※以下、超長文です。
また震災当日の表現を含みます。実際の被災の体験を記載しています。
気分を害される、つらい記憶を思い出してしまう可能性があります。無理な方は最後まで読まなくて大丈夫です!どうか自分を追い詰めずに、今日は心穏やかにお過ごしください。
被災の程度、内容を比べるものではありません。現在の、まんまる運営スタッフとしての気持ちを読んで頂けたらと思います。
5年前の今日。わたしは妊娠6ヶ月でした。
家のコタツで、母とごろごろテレビを見ていました。
14時46分大きな地鳴りと、揺れと、家のきしむ音、恐ろしい地震速報アラームの音に飛び起き、裸足のまま外に飛び出しました。震えが止まらず『あ~私このまま死んでしまうんだ』と思いました。平日の日中、離れ離れの家族。母の腕の中で私は死んでいくんだと覚悟しました。
本当の悪夢はこの後でした。
長い長い揺れがおさまり、避難所に向かう車中、第一波を確認、夫の実家により誰もいないのを確認し、信号機が止まり渋滞する町の中で、かろうじて繋がったメールの電波で釜石の職場にいる妹に震える手で『早く避難して!』と送りました。10分後『大丈夫、今避.難するところ』とメールが届きました。
その直後、高台の避難所に着きました。そこで町内に外出していた祖母と再会しました。
町を見下ろすと、聞いたことのないバキバキという音と共に、大きい黒い波に町がのまれていました。波の中に浮かぶ火の手と、その火が次々と避難所のふもとに引火していく現状。
怖くて怖くて、あの時ほど母と祖母の手を強く握ったことはありません。
私は城山体育館・大槌高校の避難所で2か月間過ごしました。
最初の1週間は【妊娠している】ということを家族以外の誰にも言えずにいました。
妊婦は特別ではないから。守られるような特別な立場でない、妊婦の私よりもっと守らなければならない立場の人がたくさんいると思っていたから。自分の身体、お腹の赤ちゃんの命が助かった私よりもっともっと辛い人がいると。
その結果、単身赴任先から私を探しに来ていた夫とは何の手掛かりもなく会えずにいました。
夫は大槌町の各避難所で『ここに妊婦はいますか?』と。それだけを手掛かりに私の事を探していたのです。
それが5年前の3月11日です。
震災後、『妊婦』『お産場所がない』ただそれだけで沢山の支援をうけ、今もその支援者と被災地から離れた場所で繋がれている。支えられている。そんな恵まれている私が、被災妊婦代表のような立場で震災時の話を不特定多数の方が見るこの場で公開することは、間違っているのではないかと悩んでいました。
今でもその思いは消えません。私自身、自分の被災体験は話せるようになってもこの時期メディアで流れる震災のVTRなどは見れません。
それでも、私が体験した震災の事、あの時妊婦だったからこそ感じた不自由さ必要だったことを話していくことは大切だと思っています。
震災時、『私は妊娠しています』と声に出すことは、家族、自分の命、赤ちゃんの命を守るために絶対必要です。わたしは大丈夫、特別じゃないと遠慮せずに勇気を出して主張してください。
私は、まんまるで沢山の勇気と安心をもらいました。
ママとして、女性として自分のことを大事にすることができました。
被災したしてない関係なく、妊娠出産育児期間に、助産師や保健師などの専門職と繋がれていることは、女性にとって大きな安心になると思います。
もっともっとたくさんのママや専門職が、まんまるの輪で繋がっていけるように、ほっとできる場所をつくっていけるように頑張っていきます!

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